フリッチャイのエピソード

第11話 晩年の演奏T−テンポ
第12話 晩年の演奏U−リハーサル
第13話 ベルリン市立歌劇場音楽総監督として
第14話 モーツァルトとバルトークについて
第15話 RIAS交響楽団/ベルリン放送交響楽団とともに
特別編 フリッチャイ夫人

第11話 晩年の演奏T−テンポ
フリッチャイの演奏は、エネルギッシュで若さがあふれていた頃の演奏と困難な病気を克服して復帰した晩年 の数年間の演奏とで大きな変化を遂げている。前者がトスカニーニ的な演奏とするなら後者はフルトヴェングラー的 であり全く好対照である。本当に同じ指揮者なのかというとまどいすら生まれてくる。容貌も、いかにも栄養 が行き届いているような太った姿から頬がこけすっかりやせ細ってしまった。それだけ病気との闘いがすざましい ものであったということである。
私は音楽評論家でもないので、演奏に対してどうこう表現することは苦手であるが、晩年の演奏について 唯一目で見てはっきりわかることは、テンポの設定である。テンポが格段に遅くなり、特に緩徐楽章で顕著に 表れている。
晩年の演奏時間と、初期又は他の指揮者の演奏時間と比較して見よう。

○モーツァルト 交響曲第39番
T 8:29 U 9:46 V 4:13 W 4:09 計 26:37(ウイーンSO、1959.11)
T 8:25 U 8:24 V 4:02 W 3:54 計 26:33(セル、クリーヴランドO、1960.11)
○モーツァルト 交響曲第40番
T 9:25 U 9:15 V 4:28 W 5:11 計 28:19(ウイーンSO、1959.11)
T 8:13 U 8:44 V 4:56 W 4:40 計 26:33(セル、クリーヴランドO、1967.8)
○モーツァルト 交響曲第41番《ジュピター》
T 8:25 U 9:42 V 4:54 W 6:25 計 29:53(ウイーンSO、1961.3)
T 7:25 U 7:40 V 4:12 W 6:05 計 25:22(RIASso、1953.9)
モーツァルトの三大交響曲は全て緩徐楽章が遅い。40番は全体的に遅く、暗いイメージがつきまとう。 我が友は「悲しみすぎたシンフォニー」と評した。

○ベートーヴェン 交響曲第3番《英雄》
T 17:12 U 19:06 V 7:05 W 13:10 計 56:33(ベルリンRSO、1961.2)
T 15:40 U 15:30 V 6:21 W 12:36 計 50:07(ベルリンPO、1958.10)
○ベートーヴェン 交響曲第5番《運命》
T 9:10 U 13:18 V 6:23 W 9:28 計 38:19(ベルリンPO、1961.9)
T 9:12 U 13:11 V 6:32 W 9:26 計 38:21(ベルリンRSO、1961.9)
T 8:04 U 11:11 V 5:50 W 8:05 計 33:20(フルトヴェングラー、ベルリンPO、1947.5)
《英雄》は、闘病生活に入る直前と復帰後で大きく変わっている。
BPOの《運命》は一番遅いと評された。

○ブラームス 交響曲第2番
T 16:04 U 9:53 V 6:12 W 9:31 計 41:40(ウィーンPO、1961.8)
T 15:10 U 9:38 V 5:41 W 8:44 計 39:13(バイエルン州立O、1958.5)
これはそれ程顕著ではない。演奏内容は・・・晩年のものがもの凄く充実している。

○ドヴォルザーク 交響曲第9番《新世界より》
T 10:03 U 13:54 V 8:14 W 12:01 計 44:12(ベルリンPO、1959.10)
T 8:56 U 10:10 V 7:48 W 10:21 計 37:15(RIASso、1953.9)
○チャイコフスキー 交響曲第6番《悲愴》
T 21:20 U 9:20 V 8:55 W 11:03 計 50:38(ベルリンRSO、1959.9)
T 20:09 U 9:14 V 8:54 W 11:50 計 50:07(バイエルンRSO、1960.11)
T 17:22 U 7:49 V 7:50 W 9:18 計 42:19(ベルリンPO、1953.6)
《新世界》、《悲愴》ともすごいですね。トータルで7〜8分遅くなっている。

○ヴェルディ《レクイエム》
計 92:27(ベルリンRSO、1960.10)
計 75:28(RIASso、1953.9)
晩年の《レクイエム》はレコード芸術で特選をいただいた。 (H13.10.21)

第12話 晩年の演奏U−リハーサル
フリッチャイのリハーサルについては、1947年、彼がザルツブルク音楽祭に登場した時点から高く評価を 受けており、ウィーン・フィルのメンバー達は「すばらしくリハーサルをすることを心得ている人。」 (O.ビーバ「ウィーン・フィルハーモニーとザルツブルク」から−芹沢ユリア訳)と批評している。
エルザ・シラー女史も「私にとって忘れられないのは、フリッチャイのリハーサルで、その思い出は尽きません。 彼は自分自身はもちろん、協力者たちに対しても決して手を抜きませんでした。仮借なくまた全員が疲労困憊 するまで、彼は、自分が思い描いた理想の響きに合致しない部分を、そのたびにやすりをかけて磨くのです。 しかし、彼は同時に、その仕事の激烈さと厳しさを、いきいきとしたすばらしいファンタジーにみちた比喩 と、ときには誤りはありましたがよどみのないドイツ語から生まれる快活さによってほぐし、和らげました。」 (「フリッチャイ回顧録」から−歌崎和彦氏訳)と述べている。

「フリッチャイはオーケストラに自分の意図を理解させることに−RIASのメンバー達はそれをイラスト リーレン(図解)すると言っているが−特別の才能があった。」(歌崎和彦氏−レコード芸術1984年6月号) ということであるが、私達は、幸運にも1960年に収録された《モルダウ》のリハーサル風景で、 その才能をかいま観ることができる。そこでは、フリッチャイは祖父から受け継いだ良く通るテノールで さまざまな楽器のパートを歌ってみせており、さながら人間楽器である。弦も、フルートも、金管も、 ティンパニも・・・むずかしいパッセージでさえもフリッチャイはいとも簡単に自分の喉で表現してしまう。 ハンス・シュラーダーは「あるフレーズをフリッチャイが歌って聞かせると、奏者はその箇所を、すぐさま彼が 望んだ通りに、また彼の期待通りに演奏することができたのです。」(「フリッチャイ回顧録から」−岡本稔氏訳) とフリッチャイの死を悼んで開かれた対談で語っている。

フリッチャイは、自ら会得したさまざまな楽器の扱いと、もって生まれたテノールを生かして、技術面での 向上を図るとともに、(おそらく)晩年の特徴ととして、楽員にさまざまなイメージを語り、演奏により 内面的な表現と、生命を吹き込んでる。
フリードリヒ・ヘルツフェルトは、「完全性と人間的なイメージの中で」と題したフリッチャイ論の中で、 「フリッチャイのプローベでは次々とイメージが生まれた。いかなる作品をも、詩的なるもののパノラマに つくり変えた。」と述べ、いくつかの例を挙げている。「ハンス・シュラーダーによれば《エロイカ》の プローベにおいて、フリッチャイは、葬送行進曲冒頭のコントラバスの忍び歩くようなアウフタクトのところで、 英雄の墓に投ずる土をいっぱいに掬いとった手について語ったという。また、フリッチャイは、《ドン・ジョバンニ》の フィナーレを導入して鳴り響くふたつの悲劇的な和音、騎士長の石像がドン・ジョバンニの招待に応じる場面で 奏されるその和音を、詐欺師や放埒者をもなお見捨てることのない生への不屈の意思を表すものとして理解 するように、何度も念を押したという。・・・フリッチャイはヴェルディのレクイエムの最初の数小節に、 ほとんど光の届かぬ地下納骨堂に下りていく人を想起したのであった。」(歌崎和彦氏訳)

フリッチャイ自身が残した文章にも、曲に対するイメージが述べられている。
フリッチャイは、音楽作品において、それぞれに固有な響きの基音と色彩があるとしており、「私はプローベで、 スコアを研究した時に自分の内部で聴きかつ見たものを実現するように努めなければならない。それは例えば、 青く美しく光る銀色の、うっとりするようなピアノであり(デュカスの《魔法使いの弟子》の中のグロッケン シュピールの魔法のような響き)、あるいは不吉な威嚇するような響きをもつ真っ黒な恐ろしいものであり (バルトークの《青ひげ公》の冒頭)、まばゆい黄金色の目のくらむようなローマの真昼の太陽であり (《トスカ》の第一節)、深紅や金色銀色に輝き、たくさんの花が咲き乱れた絢爛と混乱であり (《カルメン》前奏曲の冒頭)、金茶色の、色褪せてはいるが心暖まる赤みをおびた秋の響きである (ブラームスの第4交響曲の冒頭)。」(フリッチャイ自伝−歌崎和彦氏訳)
モーツァルトの「イドメネオ」序曲について「まず曲の冒頭が、英雄的な性格を規定する。するとすぐ続いて、 われわれは、海がざわめくのを覚え、巨大な波がさかまくのを聴く。」 (フリッチャイ「モーツァルトとバルトークについて」から−礒山雅氏訳)バルトークの管弦楽のための協奏曲 第一楽章の金管のファンファーレの部分については「テーマがごく狭い所に詰め込まれ、・・・どの一吹き も鋭く、銃剣の尖端にきらめく陽光のように」(フリッチャイ「モーツァルトとバルトークについて」から −許光俊氏訳)等。
先に挙げた《モルダウ》のリハーサルでは、フリッチャイは冒頭の部分について 一見あわないかもしれないといいながら「大雨ののち、太陽が再び顔を出します。すると小さなミミズが土の 中から出てきて、日光浴を始めるのです。するとそこへ別のミミズがやってきて一匹目のミミズに言い寄り ます。すると一匹目のミミズが『あんたバカじゃないの、アタシはあんたのしっぽなのよ!』と言うのです。」 (岡本和子訳)と言ってふたつのフルートの掛け合いに対するイメージを述べている。

Y.メニューインは、「フリッチャイがトヴォルザークの《新世界交響曲》について語った時、 彼はニューヨークに着いた移民たちの姿を思い浮かべ、この約束の地で移民たちが生活をはじめ、希望の煙が 立ち昇る中から彼らの家々の小さな尖塔が姿を見せるイメージや、移民たちの郷愁や悲しい経験などの イメージを魔法のように呼び起こしたことがある。」と語り、同じ《新世界交響曲》について、1959年に ベルリン・フィルと再録音した際の様子をティンパニ奏者だったテーリヒェンは次のように書いている。 「フリッチャイによると第一楽章の第一主題の上昇して下降する音型は『ドヴォルジャークは(フリッチャイによれば) 摩天楼を前にして驚嘆したのだという。彼はちっぽけな存在として街路に立っており、最上階まで仰ぎ見てから、 その視線をふたたびファッサード沿いに下へと滑らせていった。』」(「あるベルリン・フィル楽員の警告」から −平井吉夫・高辻知義訳)つまり、この主題は「視線」なのである。未知の建築群、国に対する視線。 第一楽章はまさにそうした視線に満ちているわけ(歌崎和彦氏訳)ということである。

最後に、M.シュターダーが、ベルリンでの最後の演奏会となったハイドンの《四季》のリハーサルの時の 感動を記した文章を紹介したい。
「ハイドンのリハーサルでは彼はまさに本当の絵巻物を広げてみせました。そのとき私達は皆、作曲家と その時代の思想世界に生きておりました。この全く当然のように鳴り響き、しかもきわめて芸術的に再生された オラトリオはすみずみまでもそれにふさわしい意味を帯びていました。それとともに、演奏者全員にハイドン の天与の才への讃嘆がいや増しに強まってゆくのでした。この演奏は私の長い演奏経歴の中で私が聴き かつ経験した最も完璧なものとして記憶にとどまっています。」(M.シュターダー自伝から−西谷晋氏訳) (H13.12.3)(2023.2.20改訂)

第13話 ベルリン市立歌劇場音楽総監督として
フリッチャイは、ベルリン市立オペラでの「ドン・カルロ」の成功で、1948年12月、同オペラの 音楽総監督(1949年9月から発効)になる契約を交わした。もともと、ハインツ・ティーチェンは若く 才能のある指揮者を探していて、1948年ザルツブルク音楽祭でのフリッチャイのリハーサルを見た ウェルナー・エックが「将来の音楽総監督になるべき人を見つけた」とティーチェンに報告していることから、 音楽総監督就任は当然の帰結であった。

1949年6月5日、新演出で上演された「フィデリオ」について、D.F=ディースカウは「異質な諸要素 からまとまったアンサンブルを作り上げる彼の並はずれた天分を再び目のあたりにした。どんな小さな部分でも、 取るに足らないような細部でも、彼が愛情を傾けて取り組まなかったところはない。彼の解釈の新しさは刺激的で、 非因習的であり、これに逆らう疑い深い連中もすぐに魅了した。室内楽風に、そしてロマン派的なパトスは 伴わずに、この作品は若々しく、これまでとは違った響きを上げ始めた。」(フリッチャイ回顧録から −許 光俊氏訳)と回想している。
ベルリン市立オペラの音楽総監督を務めていたとき、後年には見られないレパートリーがあった。ワグナーである。 1952年に音楽総監督を辞任するまでの3年間、「トリスタンとイゾルデ」、「さまよえるオランダ人」、 「ワルキューレ」を指揮している。このことについてフリッチャイは後年、次のように回想している。 「彼(ハインツ・ティーチェン)は、私を暖かく受け入れ、長年にわたる自分のバイロイトでの経験に即して、 幾晩も私にワーグナーのライトモチーフの迷宮の秘密を手ほどきしてくれた。こうして私は、 ハンス・フォン・ビューローからハンス・リヒターとカール・ムックをへてティーチェンへといきいきと 受け継がれたバイロイトの音楽的伝統を、直接体験することができたのだ。ベルリンで30年にわたって オペラの監督をつとめたティーチェンが、当時34才だった私を信頼して、市立歌劇場におけるレオ・ブレッヒや ブルーノ・ワルターの遺産を託してくれたのである。」(フリッチャイ自伝から−歌崎和彦氏訳)

ティーチェンは1950年、「ニーベルングの指輪」の 新シリーズを計画し、同年9月3日の「ラインの黄金」幕開けをフリッチャイの指揮で飾りたかったのだが、 何らかのトラブルが発生し、A.ローターが指揮をすることになり、その後もフリッチャイは1回も指揮を とらなかったのである。一方で次の「ワルキューレ」では、1951年2月21日の初日の指揮者として ティーチェンが招いたL.ブレッヒでなくフリッチャイが指揮したほか、14回の公演のうち9回を 指揮した。

1952年6月フリッチャイは市立オペラに辞任を申し出、ベルリンを離れスイス・ボーデン湖のほとり、 エルマティンゲンに居を定めたのである。この後、フリッチャイはヨーロッパの数え切れない都市、 またアメリカでも客演を重ね、彼自身「旅の季節が到来した」と後年振り返っている。(H14.2.10) (2023.2.20改訂)

第14話 モーツァルトとバルトークについて
1961年、フリッチャイは、「モーツァルトとバルトークについて」という本を執筆した。70余ページ の小冊子である。当時ザルツブルク音楽祭の総裁を務めていたB.パウムガルトナーによれば、「彼 (フリッチャイ)が指揮者として完成するときに、次第に消え行きつつあるものをもう一度、言葉で述べる 必要に迫られての論であった。天職に強い信頼感を抱いていた彼としては、そのような必要性を信じたく はなかったし、厳しい手術にも勇気を持って次々と耐えてきたのだった。」(フリッチャイ回顧録、 茂木一衛氏訳)

この本の中でフリッチャイはモーツァルトを「絶対的な音楽」という意味で最後の 偉大な作曲家と位置づけている。ここでいう「絶対的な音楽」とは、「音楽が舞踊から開放されたところに はじまり、それが文学や標題と結びつくところで終わる。」としている。そして、「この音楽はすべてを、 きわめて変化にとんだ生活のリズムや不可解な驚き、変幻する希望、甘い苦悩と苦渋にみちた幸せ、 却罰と浄化、活動と勝利といったあらゆるものを我々の中に呼び覚ますことができる。それは、最も直接的 かつ密接な形式の中であらゆる感情を再現すること、それらを単に他の芸術から独立的に、かつすべての 芸術の中で最も美しく効果的に再現することができる。」ということである。そうしたうえで、歴史の流れを 見てみると「ハイドンはまだ『片足で』踊りと結びついており、ベートーヴェンは、すでに文学と標題への 最初の一歩を踏みだしているのである。そして、モーツァルトは踊りとは決定的に縁を切り、しかも決して 文学や標題への道に近づかなかった。」(以上、歌崎和彦氏訳)古典派の中でもモーツァルトだけが、 他の何からも縛られない純粋に音楽を作った唯一の作曲家ということである。
また、バルトークの項では、バルトークの生涯と作品について解説するとともに、特に「管弦楽のための 協奏曲」について、この曲のイメージするところ、演奏上の解釈が述べられている。例えば第一楽章の 金管合奏の部分について、「どの一吹きも鋭く、磨き上げられた響きをたてる。銃剣の尖端にきらめく陽光 のように!」(許光俊氏訳)と。残された録音と対比してみると興味深いだろう。

この本は、フリッチャイが「完全性においてまさに音楽そのものであり、絶対的な基準」であったモーツァルトと、 自国の作曲家、バルトークについて単に列記して著したというのでなく、彼によればこの二人の作曲家は 深いところで共通点があるというところまで言及している。「・・・このふたり、モーツァルトとバルトークは、 前者については33歳から35歳まで、後者については60歳から65歳まで、という彼らの生涯における もっとも困難な時期に、死のきざしに特徴づけられたきわめて内面的な作品を作曲した。そこには、深い悲しみ をたたえたこの上なく美しい歌と、豊かな慰め、和声と湧き出るような豊かな旋律が満ちあふれている。」 (岡本稔氏訳)これはフリッチャイについても同様なことが言えるのではないだろうか。彼の言葉を借りれば、 「フリッチャイは、45歳から47歳まで、生涯における困難な時期に、死のきざしに特徴づけられた きわめて内面的な演奏を行った。そこには、深い悲しみをたたえたこの上なく美しい歌と、豊かな慰め、 和声と湧き出るような豊かな旋律が満ちあふれている。」

残念なことに今日、この本は顧みられていない。

以降、追記
2015年「伝説の指揮者 フェレンツ・フリッチャイ」が発刊され、この本の日本語訳が収録された。 (H14.2.16)(2023.2.20改訂)

第15話 RIAS交響楽団/ベルリン放送交響楽団とともに
フリッチャイとRIAS交響楽団/ベルリン放送交響楽団(1956年からRIAS交響楽団からベルリン 放送交響楽団に名称が変わった)は、1948年12月に彼が始めてRIAS交響楽団を指揮して以来、 首席指揮者を離れていた期間も含め生涯にわたって良好な関係を継続した。
フリッチャイ自身、RIAS交響楽団/ベルリン放送交響楽団について「私がこれまでに手にした中で最も 美しくすぐれた金管部、そして粗野に堕すことのない衝撃力。私は自分がバルトークやコダーイをこの オーケストラによって演奏するのが一番好きだということを告白せずにはいられない。」(フリッチャイ 回顧録から−許 光俊氏訳)そして、「このオーケストラの最も他を圧する要素は、自由に変化することが できるということです。彼は本当に様々な様式を生み出すことができます。」(北ドイツ放送「音楽家の 自画像」から−武石みどり氏訳)と述べ、高く評価している。

ヒューストン交響楽団やバイエルン州立オペラでは任期途中−ヒューストンはたった8週間−で辞任したの に対して、RIAS交響楽団/ベルリン放送交響楽団とはなぜ良好な関係が継続できたのだろう。
一つは、創設して間がなく、彼が首席指揮者に就任するにあたってメンバーの増強を行い、本格的な演奏会 活動を始めたためである。いわば、彼のために編成されたオーケストラと言ってもよいだろう。当時、 RIASの音楽部門のチーフであったエルザ・シラーは、フリッチャイを信頼し、レパートリーにおいても 彼の意向を尊重していたということが窺える。フリッチャイは、RIAS交響楽団とともに、 ドイツ・オーストリア音楽はもちろんのこと、故郷の作曲家、バルトークとコダーイの作品を積極的に 取り上げ、ポピュラー化に努めることができた。
もう一つは、創設間もないとはいうものの、優秀なオーケストラであったということである。RIAS交響楽団 のメンバーの多くは、戦前のベルリン国立オペラに所属していた奏者であり、戦後、東ベルリンから 西ベルリンに逃れてきて、オーケストラに参加したのである。
彼はこのオーケストラの期待を抱き、厳しい練習を続け、また、メンバーもそれについてきて、たちまち、 世界の注目をあびるオーケストラとなったのである。当時のメンバー、H.ヘーフスによれば、 「(市立オペラに属する同僚からの話で)この指揮者が優れた音楽家で、なおかつ楽員からは苛酷なまでに 常に力の限りを要求することを知っていました。(しかし、)前からきつい仕事になれている楽員たちには さして恐れるに足りませんでした。しかしまた別の楽員たちにとっては、そんな厳しい、まさに苛酷な指揮者 を前に戴いているのは、必ずしも愉快なことではなかったのです。それにしても、練習を重ねるごとに、 録音を重ねるごとに、演奏会を重ねるごとに、我々が前より必ず良くなっていくのを、皆が如実に感じ取って いたということです。フリッチャイの指揮棒の下での仕事は、誰も抜け出ることのできない激流のようなもの でした。」(フリッチャイ回顧録から−須永恆雄氏訳)と回想している。
フリッチャイ回顧録を編纂したF.フェルツヘルトによれば、「フェレンツ・フリッチャイの成功が、 オーケストラのトレーニングのための完璧な技術とセンスによっていることは言うまでもない。彼はどこに おいても、ものすごいエネルギーでそれを達成することができた。その能力によってフリッチャイは、 彼のRIAS交響楽団をほとんど一夜にしてベルリンの最高水準のオーケストラにしたのであった。」 (フリッチャイ回顧録から−歌崎和彦氏訳)

フリッチャイは、1952年6月、ベルリン市立オペラの音楽総監督を辞任したあとも、RIAS交響楽団の 首席指揮者にはとどまり、1953年6月にアメリカからの援助が打ち切られ楽団存続の危機に瀕した ときも乗り切ったが、1954年10月には辞任し、アメリカ・テキサスのヒューストン交響楽団の 常任指揮者となった。しかし、音楽的ポリシーが一致せず、上述のとおり、たった8週間で辞任し、 ヨーロッパ、そしてRIAS交響楽団の指揮台に戻ってきたのである。フリッチャイ辞任後のRIAS 交響楽団は、O.ヨッフムの弟、ゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフムを指揮者に迎えたが、この人事は完全な 失敗といわれ、オーケストラの演奏力は、著しく後退したと批判された。結局、1955年も、 フリッチャイが客演指揮者という立場で多く指揮をとったのである。1956年から1958年の間は、 バイエルン州立オペラの音楽総監督を務め、多忙を極めたが、合間を見て、ベルリン放送交響楽団の指揮台に 立っている。そして、病気で1年間休養した後、1959年秋には、再度、ベルリン放送交響楽団の 首席指揮者に返り咲いたのである。
当時のメンバー、H.シュラーダーは「フリッチャイは世界中でいくら成功しても、やはり我々のところに 帰ってきたいのだとね。ここでこそ、芸術的のみならず、人間的にも理解してもらえると、分かっていた からです。当初の緊張はつまり、十全の相互理解に恵まれた芸術的上の協力関係へと変わっていった。」 (フッリチャイ回顧録から−須永恆雄氏訳)と回想している。

フリッチャイは、ベルリンでの演奏会に加え、1951年から1955まで毎年、そして最晩年の1961 年、RIAS交響楽団/ベルリン放送交響楽団を率いてドイツ国内はもとよりイタリア、イギリス、フランス、 ベルギーなどヨーロッパ各地に演奏旅行に出かけ、多くの聴衆に感銘を与えた。1954年3月、演奏旅行で パリに立ち寄った際は、「完璧だ、殆ど余りに完璧だ!」と絶賛された。
1961年春のベルリン放送交響楽団との最後の演奏旅行について、E.マールクは、次のように述べて いる。「生命の危機にさらされるほどの深刻な病からよみがえって、フェレンツ・フリッチャイはいっそう 細くなり、いっそう感覚がとぎすまされ、そして今や指揮棒を持てなくなったその手にベルリン放送交響楽団 を再びがっちりと掌握し、デンマーク、イギリス、フランスの首都へ、最後の国外コンサート・ツァーを 行った。これら3つの音楽の都で、ベルリン放送交響楽団はホールを埋めつくして満員の聴衆から大喝采を 浴びる成功を手にし、その名声は決定的なものとなった。拍手喝采にわく聴衆を前にして、オーケストラは 負担もかえりみず気前よくアンコールに応えた。聴衆はロッシーニの序曲『絹のはしご』に熱狂し、そして フリッチャイがその熱烈な拍手にこたえるべく、完璧な腕前を披露した両オーボエ奏者を、そして オーケストラ全員を聴衆の前に立たせるたびに、歓声の声をあげつづけたのであった。」(フリッチャイ 追悼文から−加藤博子氏訳)
フリッチャイとベルリン放送交響楽団との共演は、1961年11月10日〜12日、ベルリン自由放送 大ホールでのハイドン「四季」と、11月16日、数週間前に築かれたベルリンの壁のために中止になって いた外交官と報道関係者のためのパーティに代えてボンで催された演奏会でベートーヴェンのエグモント 序曲、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第7番を指揮したのが最後であった。(H14.5.5)(2023.2.20改訂)

特別編 フリッチャイ夫人
(2003年1月21日シルヴィア・ゲーナー−フリッチャイ夫人が90歳で亡くなった。シルヴィア夫人のことについて 記されている資料は少ないが、手元にあるもので急遽作成してみた。)

シルヴィア・ゲーナー−フリッチャイは、1913年1月1日プタペストに生まれた。 ルーマニアとオーストリアの混血美人である。1950年にフリッチャイと結婚しているが、フリッチャイは二度目、 シルビア夫人は三度目のの結婚であった。フリッチャイは前の夫人との間に3人の子供 (フェレンツ、アンドラーシュ、マルタ)がおり、シルヴィア夫人も子供が一人 (シェーネン・クリスチャン)がいた。

二人のなれ初めについて記されたものはないが、誰もが認める良い夫婦であったようである。
マリア・シュターダーは、フリッチャイ回顧録で次のように述べている。「・・・職務を多く持てば持つだけ 彼はいつもくつろぎの時間を見つけようとしました。それは間伸びした成り行き次第ではない、精神に満ちた 会話とか食卓での楽しいひとときでした。そこでは、彼の家族と友人たち一同はその日の不愉快なこととか、 仕事の苦しみや心配を全部忘れてしまいました。この時、彼には全く別な形で人生と美に対する抑え切れない 歓びが訪れましたし、彼の多面にわたる知的関心が表現されました。彼の実に面白く、いつも心のこもった ユーモアで私達は幾たび楽しい一夕を過ごしたことでしょう。・・・彼のすべての美しきものへの歓びは、 愛する妻シルヴイアとともに作ったエルマティンゲンの素晴らしい自邸に眼に見える形で表現されていました。 」(西谷晋氏訳)
エルマティンゲンの自宅は、1952年ベルリン市立歌劇場の音楽総監督を辞任した後、購入して住んでいた。 フリッチャイは1963年に刊行された「音楽家の肖像」の中でエルマティンゲンの自宅のことについて記している。 「妻が湖畔の小さな夢見るような村を見つけてきた。そこはボーデン湖畔のエルマティンゲンという村である。 私達はそこの見事な庭付きの美しい家に引っ越した。」

次のような逸話もある。1955年「魔笛」を録音していたときのこと、フリッチャイのためにパーティが開かれた。 マリア・シュターダーは空腹だったうえに大好きなイチゴが山と積まれていたので食べ始めたところ、 フリッチャイは「君はもうしばらくしてパミーナのアリアを歌わなければならないのにイチゴを食べては だめだよ。」と。「イチゴには鋭い繊毛が生えていて、君がずうずうしくもそんなに食べると、繊毛が君の中に 突き刺さるわけだよ。そうなればどうなるかわかるだろう。」彼女は渋々他の果物を食べようとしたとき、 フリッチャイ夫人がとんで来て「彼はどうしようもないわね。でもあなたも子供のように彼の言うことを全部 信じてしまうなんて。」(モーツァルティアン第4号「ハスキル、シュターダー、フリッチャイ」西谷晋氏著から)

また「魔笛」を録音する前年、1954年10月、ヒューストン交響楽団の常任指揮者になったとき、夫人を伴って渡米 しているが、二人を対比して「フリッチャイ自身は、中肉中背、かなり禿げ上っていたが、赤っぽい髪の毛がまだ 残っていた。スタイリッシュなモードにつつまれた夫人とは対照的に、フリッチャイは服装に無頓着であった。」 と三浦淳史は述べている。

1963年2月20日、フリッチャイが亡くなった後、シルヴィア夫人は、フルート奏者でベルリン放送交響楽団の支配人 ハインツ・ホーヘスに「フリッチャイはブルックナーの交響曲第8番の総譜を研究している最中であった。」と 語っている。
その後シルヴィア夫人は、フリードリッヒ・ヘルツヘルトと協力して1964年「フリッチャイ回顧録」をまとめた。
晩年はバーゼルにある「スイス対麻痺財団」の援助を行い、1975年から1986年までは財団委員会の委員も努めた。 1983年2月20日には、フリッチャイ協会主催による「フリッチャイと音楽都市ベルリン」題したH.H. ストッケンシュミット教授との対談に顔を見せている。また、1996年にはフリッチャイが録り直しを希望 していてかなわなず37年間眠っていた1959年の「悲愴」が日本で発売されたが、このときシルヴィア夫人もこの「悲愴」を 送り出すことを快諾してくれ、日本で世界初発売する運びとなったわけである。

スイス対麻痺財団が出した訃報の中で彼女のことを次のように評している。
「気高くカリスマ的」であったと。

補足:その後、二人のなれそめがわかり、「シルヴァア夫人」第1話に記した。(H15.2.22)(H16.2.12訂正)(2023.2.20訂正、補足)

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