| 第1話 ザルツブルク音楽祭へのセンセーショナルなデビュー |
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| 第二次世界大戦後、これまで古典的な作品のみを上演していたザルツブルク音楽祭は大きく変わろうとして
いた。 すなわち、プログラムに現代作品も取り上げることになり、その最初の年である1947年夏、オーストリアの作曲家 ゴットフリート・フォン・アイネムのオペラ「ダントンの死」がザルツブルク音楽祭で初演されることになった。 指揮は戦前、ベルリンのクロール・オペラで現代オペラを精力的に指揮し、ヨーロッパですでに人気絶頂 にあったオットー・クレンペラーが予定されていた。 ザルツブルク音楽祭に先立つ1947年6月、第1回ウィーン芸術週間が開催され、ブタペスト・フィルが招かれ、 ラディスラウス・ソモギとフェレンツ・フリッチャイの二人の若い指揮者が同行してきた。 ザルツブルク音楽祭の事務局では、「ダントンの死」の初演にあたり、リハーサルでのクレーンペラーの アシスタント役を探していたが、この二人の指揮者にそれを打診した。最初に打診されたソモギは練習時間が短 すぎると考え断ったが、フリッチャイはこの申し出を受けた。その当時のことをフリッチャイは次のように回想 している。「(ウィーン芸術週間でブタペスト・フィルを指揮した)翌々日、ザルツブルク音楽祭でオットー・ クレンペラーの補佐役を務めないかとの申し出があった。音楽祭は翌月に始まることになっていた。 私はゴットフリート・フォン・アイネムの「ダントンの死」を徹底的に検討したが、長くは考えずに承諾した。 ただし、条件付きであった。それは、7回の公演のうち少なくとも1回は振らせてほしい、というものであった。」 (フリードリッヒ・ヘルツフェルト編「フェレンツ・フリッチャイの思い出」の中のフリッチャイ自身による 伝記的文章から−岩下久美子訳) 夏になり、クレンペラーはリハーサルを開始したが、全てがうまくいったわけではなかった。リハーサルの間、 クレンペラーの気分は優れなかった。音楽祭の事務局では彼の医師に状況を聞いたりたが一向に改善せず、 最後にクレンペラーは「私はこの作品を指揮することができないし、指揮しようとも思わない。 (Ich kann und will diese Oper nicht dirigieren)」と宣言して指揮をキャンセルしてしまった。 初日まであと二週間という時であった。しかし、音楽祭の事務局はあわてなかった。「我々にはまだフリッチャイがいる。」 こうして世界が注目する中、フリッチャイは1947年8月6日の初演の指揮をとり大成功で収めたのである。 フリッチャイ33歳の誕生日を迎える直前であった。 この成功により、翌年、翌々年にわたり同音楽祭での現代オペラの初演の指揮をとることになったわけである。(H12.11.7)(2023.2.20改訂) |
| 第2話 テキサスのフリッチャイ |
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フリッチャイがアメリカ、テキサス州のヒューストン交響楽団の常任指揮者を務めたことはあまり知られていない話
である。しかし、当時の音楽芸術には次のように紹介されており、日本にもフリッチャイの動向が伝えられていたの
である。 「○ フリクセイ、米国ヒューストン交響楽団を指揮 西ベルリンのRIAS交響楽団の常任指揮者、フェレンク・フリクセイは、今回1954年〜1955年のシーズン に、米国ヒューストン交響楽団を指揮することの契約が成立した。即ち、フリクセイは、ヒューストン交響楽団の 常任指揮者、エルフム・クルツの後継者として、今秋のシーズンの10月から・・・」(当時の日本では、フリク セイとかフリクサイと呼ばれていた) フリッチャイはヒューストン交響楽団の常任指揮者になる1年前、単身でアメリカに演奏旅行に出かけている。 1953年11月、初めてアメリカを訪れたフリッチャイは、最初にボストン交響楽団を指揮し、ハイドン、バルト ーク、チャイコフスキーのプログラムによる演奏会を4回行った。(ハイドン「時計」がモビメント・ムジカから レコード化されている) 続いて西海岸のサンフランシスコに行く途中、ヒューストンに立ち寄り、ここで1回のコンサートを開いている。 モーツァルトの「ハフナー」交響曲などの曲をヒューストン交響楽団で指揮し、その成功により常任指揮者になる 契約が交わされたということである。1953年というとRIAS交響楽団がRIAS放送局から専属オーケストラ としての契約破棄を申し渡され、自主運営に切り換った時機でもあり、これらも常任指揮者を引き受けることの要因 になったのではないかと思われる。 余談ではあるが、フリッチャイはこのあとサンフランシスコに行き、同地の交響楽団を指揮し、8回の演奏会を開い ており、そのうちの12月9日の演奏会には吉田秀和氏が聞いていて、著書「世界の指揮者」に紹介されている。 さて、1954年10月、フリッチャイは契約を履行するため再びヒューストンにやってきた。ここでのプログラムの中には、ドボルザークの「新世界」、ワーグナーの「ワルキューレ」 第1幕があった。 そして、事件は11月半ばに起こったのである。 楽団の理事会は、マネージャーを通じて、フリッチャイに契約更新を打診した際、彼は次のような5ケ年計画を示し、 これが通れば契約を更新してもよいというのである。 1 今の演奏会場は使い物にならないので、新しいオーケストラ専用ホールを即時建設すること。 2 楽員総数を現在の85名から95名に増やし、その約4分の1を入れ替える。 3 現在の24週のシーズンを28週にのばし、リハーサルの回数も増やす。 4 弦楽器を全て買いかえる。 5 オペラの上演にふみきる。 6 契約4年度にヨーロッパ演奏旅行を行う。 7 契約5年度に全米演奏旅行を行う。 8 音楽監督の年棒を5万ドルから8万ドルの間に設定する。 楽団の理事会は思いもよらないフリッチャイの要求に度肝を抜かれ頭をかかえたが、理事の中にはユーモアのわかる 人がいて「われわれテキサス人は、アメリカ国内ではおおぼら吹きの人種として知られているが、さすがおおぼらで 有名なハンガリー人は桁外れですな。」と言って大笑いしたということである。 結局、フリッチャイは8回の定期演奏会を指揮しただけで、ご遠慮いただいたということになった。 フリッチャイがヒューストンの友人に宛てた手紙の中では、第一に楽団の向上を図ろうとしたこと、第二に自分の 責務ではなかっただろうと注釈をつけながら、楽団員の地位向上を図ろうとしたこと、そして、再度同じような立場 になったら、やはり同じような行動を取るだろうと述べている。 フリッチャイの理想と、楽団理事会、ひいては当時のヒューストンの文化面の遅れが、あまりにもかけ離れていた ということなのだろう。(H12.11.20)(2023.2.20改訂) |
| 第3話 あらゆる楽器を習得した子供時代 |
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フリッチャイがハープを除くオーケストラの楽器は何でもこなすことができたことは日本でも歌崎和彦氏などにより
紹介されている。 1948年、フリッチャイがRIAS交響楽団に現れた当時の様子を楽員の一人は次のように語っている。 「第1音から楽員全員にわかりましたよ。ともかくここには楽器のことを知り抜いた指揮者がいる、とね。 彼はたいていの楽器を自ら演奏したものです。ヴァイオリンも、クラリネットも、その他の楽器もです。 トランペット奏者にすら、難所にさしかかると技術上のこつを教えてそれを乗り越えさせることが、フリッチャイ にはできました。」(フリードリヒ・ヘルツフェルト編「フェレンツ・フリッチャイ追悼記念文集」(須永恒雄訳) より) このようにさまざまな楽器を習得することができたのは、フリッチャイの家庭環境によることが大である。 フリッチャイは、1914年8月9日ブタペストに生まれた。日曜日の12時のことだったということである。 父はリヒャルト・フリッチャイで軍楽隊の指揮者として名をなし、最終的にはハンガリー軍楽隊の第一カペル マイスターに昇進した。また、祖父はテノール歌手であり、チェコのオルミッツで教会の歌手を務めていた。 もともとチェコ(モラビア)に住んでいたフリッチャイ一家は、1897年ハンガリーに移住し、 フェレンツ・フリッチャイ自身はハンガリー人として育った。 このように音楽家の家系にあったフリッチャイは6歳のときからピアノを習い始めた。フリッチャイは、週3回、 母に連れられて、フランツ・リスト音楽アカデミーに行き、音楽教師を目指す学生からレッスンを受けたのである。 また、まもなくしてフリッチャイは、大学教授からヴァイオリンを習うようになった。 そして、ピアノとヴァイオリンがかなりうまくなったころ、12か13歳の頃とフリッチャイは回想しているが、 父は「オーケストラをよく知りたいなら、管楽器もやっておかなくては」ということで、オーケストラの 第一クラリネット奏者から教えを受けることになった。さらに、トロンボーン、打楽器と学んでいった。 このようにして、次々と楽器をマスターしていき、指揮者フリッチャイの基礎が作られていったのである。 14歳になったとき、父は作曲についても勉強を始めるべきと考え、まだ大学に入れる年齢ではなかったが、 当時、フリッチャイの父はハンガリーで尊敬を集めていた人物であったことから教授たちと直接かけあい、 フランツ・リスト音楽アカデミーに入学することができたのである。それも入学試験も免除されたうえで。 (H13.1.8) |
| 第4話 ベルリンへデビュー |
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1947年夏のザルツブルク音楽祭でアイネムの「ダントンの死」の初演を大成功に導いたフリッチャイは、
翌年も同音楽祭に招かれた。 1948年夏のザルツブルク音楽祭ではマルタンの「魔法の酒」の舞台版初演を8月15日の初日を始め4回 の指揮をとった。この際、3人の人と知り合うことになった。作曲家のウェルナー・エック、ベルリンの評論家 のヨゼフ・ルーファー、そして当時、RIASの音楽部門のチーフをしていたエルザ・シラーである。 当時のベルリンはベルリン・フィルにフルトヴェングラー、チェリビタッケを擁していたものの、音楽的人材が 不足し、有能な人材が求められていたのである。 こうして、エックはベルリン市立オペラに、ルーファーはベルリン放送局に、そしてシラーはRIASにと フリッチャイのことを急報し、ベルリンへの客演が決まったのである。 1948年10月、フリッチャイはベルリンを訪れた。ベルリン市立オペラではヴェルディのドン・カルロが上演 されることになっていたが、当時監督に任命されたばかりのハインツ・ティーチェンはすぐれたバリトン歌手を求 めていて、おそらく10月20日前後、フリッチャイ立会いのもと劇場支配人の建物でオーディションが行われた。 このときのD.F=ディースカウがオーディションを受け、結果としてポーサ侯爵役としてオペラ歌手デビューを 飾ることになったわけであるが、そのときの様子をF=ディースカウは次のように回想している。 「ベルリン封鎖時代、一日たった二時間しか電力の供給が得られなかったときには、この家(劇場支配人の建物) にはエレベーターも暖房もなかった。ピアノ伴奏者の多くは、氷のように冷えきった部屋の中で二枚の洋服を重ね 合わせて演奏していた。 私は、寒さに震えながら、リハーサル室へ行くための階段を昇った。 その部屋ではフリッチャイが人口皮の外套を着て待っていた。フリッチャイは不機嫌だった。そして私のどう見ても 小さすぎるように見える洋服を上から下までじろじろ見ていた。私は侯爵というよりは、どちらかというと、 びくびくした受験合格者のように見えただろう。彼は、自分の聞いていたことに疑問を抱いて尋ねてきた。 『このベルリンでイタリアのバリトン?』 このあとは、フリッチャイは親切になり、私の初舞台を確約してくれた。彼は、軽い歩行障害があったにも かかわらず、スペイン高官達のような巧みさで私を誘導し、外套を脱ぎ、帽子をとって指揮棒を手にした。 カデンツァのついたイタリア風の二重歌唱を、フリッチャイはきれいなテノールで楽しげに歌ってみせてくれた。」 (「自伝フィッシャー=デイースカウ追憶」より一部加筆) こうして四週間後の11月18日、ベルリン市立オペラでヴェルディのドン・カルロが上演され、大成功をもたらし たのである。 これに先立つ11月6日には、ベルリン放送局のオーケストラを指揮し、トヴォルザークの「新世界より」などを 指揮、また、12月12日にはRIAS交響楽団を指揮した。そして、12月15・16日にはベルリン・フィル の定期演奏会を指揮した。この演奏会は当初、オイゲン・ヨッフムが指揮することになっていたが、ベルリン封鎖 による政情不安を嫌って、急遽キャンセルしたため、代役としてフリッチャイに白羽の矢がたったわけである。 この演奏会ではベートーベンの交響曲第一番、チャイコフスキーの悲愴交響曲などが演奏されたが、悲愴交響曲 について、当時の新聞ノイエ・ツァイトゥンクに載せられた批評は次のようなものであった。 「演奏のクライマックスは第三楽章であった。前代未聞の大胆で引き締まったテンポをとることによって、 フリッチャイはこの楽章にまったく現代的で、いわば余計なものをすべて除去した表情を付与しており、それに すっかり魅了されたオーケストラはまるでボーデン湖を越えて突っ走って行くような勢いであった。楽章の終わり には、聞き手は拍手をおくりたい気持ちを必死に堪えなければならなかった。」 このベルリンでの成功でフリッチャイは、ベルリン市立オペラの音楽監督、RIAS交響楽団の首席指揮者に就任 するとともに、ドイツ・グラモフォンとの専属契約を交わし、数多くのレコードを残すこととなった。 ※ ベルリン封鎖 第二次大戦後の1948年2月、ドイツ敗戦に伴い米・英・仏・ソ連の4国で管理していたドイツを米・英・仏3国 が西ドイツ政府樹立の方針を明らかにしたことに対し、ソ連が4国管理の原則に反すると抗議し、ベルリンを西側 3国管理地区との間の交通を封鎖したもの。6月には西ベルリンと東ベルリンに分裂した。1949年5月に封鎖は 解除されたが、その後も度々紛争が生じ、1961年8月にはベルリンの壁が築かれた。 RIASは4国管理当時のアメリカ占領地区の放送局の略(Rundfunk Im Amerikanishen Sektor)(H13.2.9) (H16.2.17一部訂正)(2023.2.20改訂) |
| 第5話 1946年、謎のウイーン旅行 |
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1946年12月、フリッチャイはウィーンに招かれ、「カルメン」を指揮した。当時、フリッチャイは、
ブタペスト国立オペラの指揮者として第二次世界大戦後の再建を委ねられていたが、その活躍を聞きつけ招待してきたのだ。 次のフリッチャイ自身による伝記的文章は、1946年のウィーン旅行に触れている数少ない文章の一つである。 「1946年、謎につつまれた経路で−当時まだブタペストとウィーンの間にはきちんとした郵便業務がなされ ていなかった−ウィーン・フィルハーモニーから指揮をしないかとの電報が届いた。私は手を尽くして連絡をとろう とした。電話がなかったら、ウィーンに向かって『いくぞ』と叫んでいたら一番よかったろう。だが、私の返事は 回り道をしてウィーンに着き、時を失してしまった。絶望の4週間が過ぎた頃、ウィーン国立歌劇場から招待が来て、 場所はフォルクスオーパーの劇場で指揮することになった。というわけで、1946年、旅行をするのが非常に 難しい状況の中、ウィーンに赴き『カルメン』を振ったのである。次のシーズンにも出演することになった。・・・」 (フリードリヒ・ヘルツフェルト編「フェレンツ・フリッチャイの思い出」に収録、岩下久美子氏訳)(H13.3.20)(2023.2.20改訂) |
| 第6話 レパートリーを巡る対立−ミュンヘン |
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1955年1月、ヒューストン交響楽団の常任指揮者をわずか8週間務めただけで辞任したフリッチャイは、
フリーランサーとしてヨーロッパに活躍の場を戻した。そしてこの年の4月、バイエルン州立オペラの総監督
をしていた演出家R.ハルトマンから、翌56年からのシーズンにこのオペラハウスの音楽総監督(GMD)に
就任することを要請された。これに先立つ1月にはピアニスト、M.ウェーバーと出会いがあり、このピアニストを
伴ってR.シュトラウスの「ブルレスケ」を5月にベルリンで、9月にミュンヘンで演奏し、録音も行った。特に、
ミュンヘンでは、GMDに就任する前のいわば顔見せ公演であり、ここでR.シュトラウスの作品を演奏したと
いうことは、R.シュトラウスの生地であるミュンヘンの聴衆にとって大変歓迎できるGMDがやってくるという
印象を与えたであろう。 ところが、結果は全く反対の方向になった。 というのは、フリッチャイはその後、R.シュトラウスの作品をバイエルン州立オペラで自らは1回も指揮しなかった のである。フリッチャイは、R.シュトラウスやワグナーの作品については、当時ミュンヘンに君臨していた H.クナッパーツブッシュ、そして客演指揮者として招いたK.ベームに委ね、自らはミュンヘンで上演されたこと のない作品の紹介に尽力しようとしたのである。 フリッチャイがバイエルン州立オペラで指揮した曲をたどってみよう。 GMD就任を直前に控えた1956年5月9日にはヴェルディ「オテロ」を新演出による初演を行った。その後、 夏には正式にGMDに就任し、ムソルグスキーの「ホヴァーンシチナ」、その年のクリスマスにはドニゼッテイの 「ランメルモールのルチア」、翌57年にはベルクの「ヴォツェック」、ヴェルデイの「仮面舞踏会」など 次々とミュンヘンでの新演出による初演を行っている。 「オテロ」は拍手喝采をもって迎えられたが、GMD就任後、フリッチャイがR.シュトラウスを演奏する気がない とわかってくると徐々にフリッチャイに対する風当たりが強くなってくる。ミュンヘンの批評家たちからはGMD たるものは、「バラの騎士」や「アラベラ」くらいは指揮しなくてはならない・・・と。劇場側もフリッチャイの 意向に真っ向から対立し、後任にJ.カイルベルトを据えようとする動きも公然と出てきた。 こうした中、1958年6月ミュンヘンのキュヴィリエ劇場の再開をモーツァルトの「フィガロの結婚」で飾ったが、 フリッチャイ自身の胃腸の病気もあってこの年の11月には2シーズンの契約期間を残して契約解除を申し出たの である。この後、フリッチャイは生死をさまよう程の闘病生活を10ケ月も送ることになる。 後年、フリッチャイは回想でミュンヘン時代のことを次のように述べている。 「ミュンヘンのオーケストラや歌手、聴衆への愛情は、心中にしっかりと生き続けている。だが、煩わしい日々の 雑用や楽団の管理、ひいてはレパートリーの問題が、研究したり、自分でこれでいいと思うように仕事をするだけの 落ち着きを与えてくれなかった。そこで私は自分の契約の切れる何年も前から、このすばらしいが荷重な義務から 解放してくれるよう頼んだのである。とはいえ、私はミュンヘンのことを懐かしく思い出す。ここはすばらしい町だ。 この町がドイツの音楽生活を形作っている。」(フリードリヒ・ヘルツフェルト編「フェレンツ・フリッチャイの 思い出」に収録、許光俊氏訳) フリッチャイがミュンヘンを懐かしく思っていたからであろう、バイエルン州立オペラとの関係はこれで全く切れた という訳ではなく、1960年にはGMD時代に新演出上演した演目を次々と再演し、また、同オペラのオランダ 公演にも同行したのである。 (H13.5.1)(2023.2.20改訂) |
| 第7話 病との闘い |
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1958年11月20日、フリッチャイはチューリヒで、胃と腸の手術を受けた。さらに1959年1月6日に
再手術を受けている。このときの容態について「死線をさまようこともあった」「絶望的な事態」
(ウェルナー・エールマン)という表現をしているようにかなり深刻な事態であったようだ。フリッチャイ自身も
「ミュンヘンを去ったとき、私は病気なり、つらい時期を送った。長い間私は生死の境をさまよった。・・・」と
回想している。 歌崎和彦氏作成の年表によれば、そもそも病気の兆候は1957年頃から出ていたようだ。この時期は、バイエルン 国立オペラとレパートリー施策について劇場側と対立しており、相当なストレスを感じていたのではないだろうか。 手許に評が見つからないので、確かではないが、この時期に録音されたベートーヴェンの「フィデリオ」の第二幕の 出だしについて、これまでのフリッチャイとちょっと違う、即物主義的でないたどたどしい表現で晩年を予想させる ものがあり、病気に対する不安の現れではないだろうかと以前批評をした人がいた。確かに序曲のぎりぎりまでに 贅肉を殺ぎ落とした鋭角的な表現と比べ、同じ録音の中でこういう表現があるというのはちょっと異質と言えよう。 フリッチャイは手術後、1959年秋まで療養しているが、この間、「何がよくて何が悪いか、なぜ自分は音楽家 になったか、他の人間を指揮するという課題は何を伴っているかということについて考える時間があったのである。 結局私は、これまでよりもいや増して真剣に、いっそうの責任感をもって自分の職業と使命とを把握しなければなら ないということを悟った。」(フリッチャイ回顧録より)のである。 そしてこれまでをはるかに凌駕する活動を再開 するが、病気が全快したわけでしはなかった。1960年4月、フリッチャイは翌年再建予定のベルリン・ドイツ・ オペラの音楽総監督(GMD)に就任する契約を交わしているが、数週間後には、シュトゥットガルトで総監督就任 予定のゼルナー、副監督就任予定のゼーフェルナーと会い「指揮者として協力はするが、自分の健康状態では、 GMDの重責は引き受けられない。」と辞退している。また、同じときではないかと思われるが、1960年6月に 同じシュトゥットガルトで南ドイツ放送交響楽団を指揮してスメタナの「モルダウ」をテレビ収録した際も、前夜、 一睡もできないほど苦しかったようで、キャンセルしようとしてシルヴィア夫人にも電報を打ったと話している。 1961年9月、フリッチャイがベルリン・ドイツ・オペラ開場記念公演「ドン・ジョバンニ」のリハーサルに 現れたときの様子をD.F=デイースカウは次のように述べている。「彼が蒼ざめひどく痩せた姿で最初の練習に 現れたとき、ただひとつわかっていたことがある。それは彼の昔ながらの情熱、ならびに彼が描き出そうとする対象 への燃えるような愛が、いつにもまして烈しいものとなるだろうということだった。」(フリッチャイ回顧録より) この後、フリッチャイはベルリン・フィル、ベルリン放送交響楽団といくつかの演奏・レコード録音をし、 12月にロンドンでロンドン・フィルとの2回の公演を最後に、再度闘病生活を送ることになった。 この頃の様子についてベルリン放送交響楽団の楽員であったハインツ・ヘーフスによると1962年6月に フリッチャイに会ったときは重病人のようで、身をかがめて杖をついて歩いていたが、その年の10月に再び会った ときは、回復したようでかなり元気そうであったと語っています。フリッチャイは気分が優れるときには、執筆活動 を行い、「モーツァルトとバルトークについて」という書を著し、また発刊されなかったものの、自伝的文章も作成 している。 さて、フリッチャイの病気とはなんだったのだろう。歌崎氏は「白血病」としているが、色々な症状があったようだ。 最初は胃と腸の手術を受けており、おそらく胃がんか何かであったのだろう。その後10回以上手術を受けている。 フリッチャイ自身「私の神経はもうずたずたで、身体の衰弱は容易ならざるものとなりました。もしこの状態でもう 一度手術を受けることになるならば、私はそれに耐えられるかどうか・・・」と1962年12月にピアニストの マルグリット・ウェバーに送った手紙で記してる。そしてその手紙には「再び健康体に戻れるのか、あるいは今年中 にクリスマスの蝋燭は燃え尽きるのか、ふたつにひとつです。」と結んでいる。音楽芸術1963年4月号では フリッチャイの訃報で肝臓がんと伝えている。ルッツ・フォン・プフェンドルフによれば「胆のうに開いた穴の発見 が遅れたため激痛に悩んだ末亡くなった。」1963年2月20日早朝のことである。とにかく、すざましい 闘病生活である。 (H13.6.11) |
| 第8話 フリッチャイが元気であったなら・・・ |
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フリッチャイが元気であったなら、もう少し長生きしてくれたら・・・そのように思うのは私だけではないだろう。
今回は、フリッチャイが計画した、また彼のために計画されたが彼の死により実現できなかった演奏会、レコーディ
ング計画などを列挙したい。なお、特記なきものは、1994年に発売された「フリッチャイ・ポートレート」
(11枚組CD)のルッツ・フォン・プーフェンドルフのライナーノートによる。 1 演奏会、常任指揮者就任 ○1958〜1960年 ボストンSO客演指揮者に招聘されるが病気のため断る(R.ストーチ) ○1959年1月30日 マルティヌー P.C初演 M.ウェーバー、ベルリン・フィル(病気のためキャンセル 、音楽芸術) ○1962年 ルツェルン音楽祭でのバルトーク「青髭公の城」I.ゼーフリート、D.F=ディースカウ (レコード芸術) ○1962年 モーツァルト「イドメネオ」(再演)(B.パウムガルトナー)、エディプス王 ○1963年 ザルツブルク音楽祭でのモーツァルト「魔笛」(B.パウムガルトナー) ○1963年 ベルリン・ドイツ・オペラでのベートーヴェン「フィデリオ」新演出(結局、A.ローターが指揮 した) ○1963年 ベルリン・ドイツ・オペラ日本公演(吉田秀和) ○1963年 ウィーン祭典週間オープニング ベートーヴェン「合唱幻想曲」、第九 ○ウィーン・フィル首席指揮者(1961年10月の定期演奏会での成功で) ○ヴェルディ 「ファルスッタフ」(フリッチャイの希望、K.シューマン) 2 レコーディング計画 ○ベートーヴェン 交響曲全曲(残り第2、4、6、再録第1、8) ○ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」全曲 ○ベルク 「ヴォツェック」I.ゼーフリート、D.F=ディースカウ ○アイネム 「時壽歌」 ○バルトーク P.C全曲 G.アンダ、ウィーン・フィル(1961年10月ウィーン・フィル定期演奏会後、 G.アンダに語ったフリッチャイの希望、G.アンダ) ○R.シュトラウス 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」リハーサルと演奏のTV収録 ○1963年 ブラームス 交響曲全曲 ベルリン放送SO ○1963年 ヴェルディ 「リゴレット」D.F=ディースカウ、ミラノ・スカラ座(H13.6.17) |
| 第9話 あこがれのブラームス4番 |
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1959年秋、困難な病気を克服したフリッチャイは指揮活動を再開、ベルリン放送SOとフリッチャイ・チクルス
なるシリーズを開催した。佐藤菊夫氏は、当時ヨーロッパに滞在していて、フリッチャイの演奏会をよく聴きに
いったということであり、実際にフリッチャイの演奏を聴いている数少ない日本人の一人であるが、彼がこれらの
演奏会体験をもとに、レコード芸術1962年8月号の現代演奏家論でフリッチャイについて感動的な文章を掲載
している。その中でも私のあこがれは、ブラームスの第四交響曲であった。 彼によると「ベートーヴェンの第三(英雄)や、ドヴォルザークの第五(新世界)(注)が忘れられないが、 ことに、ブラームスの第四が印象的で思い出に残っている。私はフリッチャイによって、ブラームスの新しい美を 発見した気持ちでしごく嬉しかった。この演奏の魅惑の一つは、新鮮で思いがけぬ美しさが無尽蔵に湧き出て、 私の知覚に淡い影でも現れてくるような含蓄のある演奏だった。この演奏に対する私自身の理知的ならびに情緒的な 反応は、ブラームスを理解する一つの規範になったともいいうる。曲が終って一瞬沈黙がつづいたのち、割れる ような拍手が起った。大抵の演奏会では曲が終るか終らないうちに拍手が起るのだが、フリッチャイの演奏会の最後 の瞬間には、彼に陶酔し、深い激しい感動と彼に対する感謝の念から即座に拍手を送るような単純なものでは なかった。」のである。 このような素晴らしい演奏とはどのようであったのだろう。 フリッチャイは、晩年、リハーサルに際し、色々な比喩、場面に例えて曲のイメージを説明して、楽員たちに 彼の作品に対する解釈を理解させるの役立てている。例えば、ベルリン放送SOのメンバーであった H.シュラーダーによれば、フリッチャイは「英雄交響曲」の第二楽章出だしのコントラバスのしのび歩くような アウフタクトのところで、英雄の墓に投ずる土をいっぱいに掬いとった手について語ったと話している。 またJ.メニューインによれば、フリッチャイが「新世界交響曲」について語ったとき、彼はニューヨークに 着いた移民たちの姿を思い浮かべ、この約束の地で移民たちが生活をはじめ希望の煙が立ち昇る中から彼らの家々の 尖塔が姿を見せるイメージなどを魔法のように呼び起こして説明してくれたと述べている。ブラームスに第四に ついては、フリッチャイはその冒頭部分を「金茶色の、色褪せてはいるが心温まる赤みをおびた秋の響き」と たとえている。 テンポはどうだろう。フリッチャイの晩年における交響曲演奏は、テンポが遅く、ルバー、特にリタルダンドを 多く用いた、陰影の濃いスケールの大きい表現が特徴である。特に緩徐楽章は通常の2分以上遅いテンポをとって 一音一音いつくしみながら流れていく。これらのことから想像すると大体次のような演奏時間ではないだろうか。 第一楽章14分30秒、第二楽章14分30秒、第三楽章6分30秒、第四楽章11分、合計46分30秒程度か。 あえて言えば、フルトヴェングラー、ジュリーニ、チェリビタッケのよいところだけをとっていった演奏と表現 すればよいか。(注:ドヴォルザークの新世界は当時出版順に第五と呼ばれていたが、現在は作曲順に整理され 第九番とされている。) 以降、追記 1988年に発刊された「フェレンツ・フリッチャイ 回顧と展望」の中に、残されている録音などのリストが 掲載されているが、その中に最晩年の1961年11月、スイス・ロマンド管弦楽団との演奏がある。それによると 演奏時間は38分4秒、私の予想を大きく外れている。なお、この録音は2023年2月現在、発売はされていない。 (H13.6.27)(2023.2.20改訂) |
| 第10話 セゲドで指揮者として活動開始 |
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1933年、フリッチャイは、リスト高等音楽院の卒業試験の翌日、ブタペスト国立オペラで面接を受けた。
このとき、オペラハウスの監督から指揮者としてでなく練習指揮者として採用の意向を知り、国立オペラへの就職に
失望したフリッチャイは、ハンガリー第二の都市、セゲドの軍楽隊指揮者になる道を選んだ。ちょうどフリッチャイ
の父がブタペストの軍楽隊を退職したことに伴う異動でセゲドの軍楽隊指揮者に空きができたためで、その採用試験
を受験、53倍の難関を突破した。こうして若干19才で一人前の指揮者として活動を開始した。 当然、軍楽隊長であるから、フリッチャイ自身も好む好まざるを得ず軍人となったわけで、まず士官候補生に任命 され、のちに少尉、中尉と昇進し最後には大尉になった。 ハンガリー国内において軍楽隊の指揮者になるということは、町のオーケストラの指揮も担当することになること であり、時を経ずしてセゲト・フィルハーモニーの指揮者に就任している。 このころのことをフリッチャイは次のように回想している。 「広場での私の演奏はとても好評だった。《マイスタージンガー》前奏曲やベートーヴェンの第7交響曲が プログラムに取り上げられることが多くなった。私は、一曲また一曲と吹奏楽向けに編曲していった。だが、 聴衆は、広場だけの演奏だけでは満足しなかった。有料の交響曲演奏会に来てくれもした。セゲドの フィルハーモニーを引き受けたときは、定期会員数は260人だった。今でも誇りに思っているのは、10年間の セゲド在任中に定期会員が2000人にふくれ上がったことである。」(岩下久美子氏訳) 1939年の夏、フリッチャイはセゲド大学の夏期講座でオーケストラの公開リハーサルを受け持った。この際、 「コンサートと聴衆」と題した講演を行い、指揮者としての仕事について、総譜の入手から指揮者個人の作品に 対するイメージの醸成を経て、リハーサル、本番までの過程について述べ、さらに実際にオーケストラを使って それを実演してみせている。 セゲド・フィルハーモニーの指揮者に在任中、メンゲルベルクを始めとする多くの客演指揮者を招いたほか、 ティボー、J.マルツィ、コルトー、バルトーク、アンダといったソリストと共演している。 1937年1月、恩師バルトークがアメリカに亡命する直前にセゲドを訪れ、彼の「ピアノのオーケストラのため のラプソディ」でピアニストとしてフリッチャイと共演している。 また1938年頃には、G.アンダとチャイコフスキーの協奏曲を共演している。G.アンダによれば 「ふたりともすべてをトスカニーとホロヴィッツよりももっと速く、かつ大きな音で演奏することに熱中していた」 のである。 フリッチャイはコンサートで着実に実力をたくわていき、1940年には初めてオペラを指揮している。 セゲドにも劇場があったが、当時はオペレッタとか芝居しか上演していなかったということである。しかし、 自前のオーケストラと合唱団はあったことからオペラを上演しようということで、フリッチャイと劇場側の意見が 一致したのである。 こうして1940年4月4日、ヴェルディの《リゴレット》が、タイトルロールほか2名の役にブタペスト国立 オペラの歌手を招いたほかは、セゲドの音楽家たちで上演されたのである。 タイトルロールを歌ったイルメ・パッロは、そのときの様子を次のように語っている。「我々3人の国立劇場の 歌手は4月3日に当地に赴いてアンサンブル・プローぺだけに参加しました。打ち明けて申せば、大いに気を揉み ながら私はリゴレットのメイクアップをしたものです。それというのも、フリッチャイはたしかに実力を認められた 指揮者ではあっても、まったく劇場の経験というものを欠いていたからです。にもかかわらず今や敢えて 《リゴレット》に挑もうというのです。演奏の始めから私は舞台に行っていました。第1場をみて、善後策を考え ようと思ったのです。・・・盛大な拍手がそんな私の危惧への返事でした。私は安心して舞台に登場しました。 何という驚きでしょう!この《リゴレット》を指揮しているのは初心者などではない、棒さばきも鮮やかな、 確かな腕の、成熟したオペラ指揮者だったのです。・・・」(フリードリヒ・ヘルツフェルト編「フェレンツ ・フリッチャイの思い出」に収録−須永恆雄氏訳) 1941年、第2次世界大戦の勃発に伴い、ハンガリーでも戦争が始まり、3年後、ソ連軍がハンガリーを占領 した。フリッチャイは軍人であったが、軍楽隊指揮者ということから戦線に出る必要はなかった。 ソ連軍が占領後は、ブタペストの地下に身を隠していたが、3日後にコンサートが開かれるとの連絡があり、 1945年1月29日、戦後初のコンサートを指揮したのである。 (H13.8.19)(2023.2.20改訂) |