| 第1話 出会いから結婚−1 |
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| シルヴィア・ヴァレヌーは、1913年1月1日、ブダペストに生まれた。父は、オイゲン・ヴァレヌーで、後にブダペストの機関車工場の技師部門の責任者になった。母は、ザルブルクの生まれで、父とは学生時代にグラーツで知り合い、1910年に結婚した。シルヴィアは、フリッチャイと出会う前に2回結婚をしていた。1回目は、ブルノ・シェーザーと、2回目はスェーデンのの名家の御曹子で、ブダペストを中心に活躍する若い実業家ベルティル・ハルストレムで、1942年、彼との間に息子クリスチャンが生まれていた。 フリッチャイとの出会いは、1948年12月、ブタペスト国立オペラでであった。そのときのことを彼女は回想録で次のように記している。 「ふたたび私の運命の扉が開いた。それは1948年12月26日、クリスマスの二日目のことである。 その日の午前、オペラハウスで椿姫が上演されていた。私は6歳の息子を連れて行った。アニー・フィッシャーもさじき席にいた。指揮者はフェレンツ・フリッチャイで、私は全く知らない人だった。」 フリッチャイは休憩時間に彼女のところにやってくると、彼女は昼食に招待した。しかしフリッチャイには先約があったため、夕食に招待することになった。 その夜、二人は深夜まで語り合った。 彼女の感想「彼はハンサムな人とは思ったけれと、それで私を夢中にさせたというほどではなかった。私たちは深夜まで暖炉の前に座って語り合った。フリッチャイは自分のこと、音楽のことについて語った。私は彼の素晴らしい両手を見続けられればいいと思った。」 翌朝、彼女はフリッチャイから再会を申し込まれたが、大晦日に夫とウィーンに招待されていて叶わなかった。フリッチャイは毎日、彼女に電話をかけ、除々に惹かれあうようになった。 当然、二人とも結婚しているので、それなりに問題はあっただろう。フリッチャイの妻マルタとの問題について彼女の回想録には何も触れてないので、量り知ることはできない。彼女の夫、ハルストレムはかなり落ち着いて受け入れたようだ。 当時、フリッチャイは1948年にベルリンに招かれてコンサートを指揮したばかりで、彼の妻、マルタは、フリッチャイと一緒に来ていて自由な西ベルリンに亡命するチャンスを掴んだ。フリッチャイの子供たちは子守のハンガリー人女性と最初はオーストリア、次にスイスに滞在していた。 フリッチャイは、1949年3月に子供たちと夫人と一緒にオーストリアで休暇をとることを計画したが、夫人の病気で流れてしまった。 この後、フリッチャイは彼女とヴェルター湖で二週間一緒に過ごし、このとき、結婚することを決めた。(H17.1.1)(H17.1.8改訂)(2023.2.20改訂) |
| 第2話 出会いから結婚−2 |
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| フリッチャイは、1949年3月、ブダペスト国立オペラでルチアを指揮したのを最後にブダペストに別れを告げた。6月5日、ベルリン市立オペラでフィデリオの新演出上演を行い、6月12日には、新たに楽団員を増強し100人規模になったRIAS交響楽団を指揮した。 シルヴィアは、ベルリン市立オペラの総監督、ハインツ・ティーチェンから電報を受け取った。「フリッチャイはとても病んでいる、あなたはベルリンに来なさい。」と。こうして6月24日、シルヴィアはベルリンで再会した。このときの再会を彼女は、「再び私の人生の節目となった。私は本当の恋人と知り認めた。私のいるべき場所はここだと。」と記している。 同じ年の夏、フリッチャイは、三度ザルツブルク音楽祭に招かれ、オルフのアンティゴネの初演を指揮した。一方で、シルヴィアとの結婚問題について調整が図られていたのだ。そのときの様子を彼女は次のように記している。 「夏、私たちはザルツブルクにいた。フリッチャイはオルフのアンティゴネを指揮した。マルタもザルツブルクにやってきた。彼女はホテルに住まい、リハーサルを見に来た。私はフェリ(フリッチャイの愛称)と私のために農家を間借りした。そしてマルタは私たちのもとに子供をよこした。おまけにハルストレムもやってきて、ホテルに滞在し毎日昼食にやってきた。そういうわけで私は4人の子供と面倒をみて、客をもてなした。食後に子供たちが外で騒いでいるとき、私たちは大人らしく理性的に私たちの問題を調整することを試みた。」 ハルストレムはシルヴィアに1年の猶予を与え、1950年になって離婚に同意した。彼はさっさと再婚してスウェーデンに帰って行った。 マルタ夫人はどうしたのか。残念なことにそのことについては一切触れられていない。夏の時点でシルヴィアのところに子供をよこしているということからすれば、その時すでに身を引くつもりがあったのだろう。 晴れて1950年、フリッチャイとシルヴィアはベルリンで結婚した。シルヴィアはフリッチャイの3人の子供と、自分の子供の4人の子供の母親になった。(H17.1.30)(2023.2.20改訂) |
| 第3話 ベルリンでの結婚生活−1 |
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| フリッチャイとシルヴィアの結婚生活が始まった。フリッチャイは2回目、シルヴィア夫人にとっては3回目の結婚であった。 シルヴィア夫人は当時のベルリンの状況を次のように記している。 「当時のオペラ、今日のヴェステンス劇場と演奏会場は、4つの占領地区に分割された廃墟の中の人々で満員だった。飢えた町で人々は音楽と劇場になだれ込んだ。事態は一触即発であった。ベルリンでは、今、冷戦の危険な場所で敵対している戦勝国同士が向き合っていた。戦争が終わって4年たった当時、音楽がありがたく誠実なものと認められ、そして後の時代に二度とないほど受け入れられたと私は思う。フリッチャイは、毎年、数え切れないベルリンの貧困者たちに望みと喜びをもたらした。」 一方で結婚生活はすべてがうまくいったというわけではなかったようだが、シルヴィア夫人によれば「困難はしだいに弱まっていき、私たちは幸せになった。」 一家は、破壊の少なかったダーレムに家を借りて、4人の子供たちと暮らした。「私は、無から大きい家計を築かなければならなかった。私の家事仕事は直ちに始まった。私は最初の一週間、彼のシャツのボタンを縫い付けた。」 当時のギャラは今日と比較するとわずかで、オペラとRIASでのフリッチャイの俸給は総計8,000マルクであったとのことである。このためシルヴィア夫人は5,000マルクを借り入れ、従業員の支払いを行ったのである。フリッチャイ一家は台所手伝いと運転手、そして子供たちのために快活な金髪娘を雇っていた。 「私は、厨房機器と家具を月賦にした。ある保養所が私たちにベッドを貸してくれた。私は衣類をブダペストから持ってきてはいたが、ストッキングの購入するにも十分に熟考しなければならなかった。」(H17.3.21)(2023.2.20改訂) |
| 第4話 ベルリンでの結婚生活−2 |
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| ベルリンでの暮らしは、徐々に豊かになってきた。 シルヴィア夫人は、まず部屋の彩りを変えていった。まず子供部屋を、天井まで真っ白にして、紅白のチェックのシーツがとりわけ目立つようにした。夫人はこの模様変えに非常に喜んでいたがしかし、それは二〜三日しか続かなかった。天井に子供のいろいろな手型がついていたのである。子供たちがのぼったのか、はしゃいでベッドの上で跳ねたのか、真相は究明されなかった。 また、時とともに美しい物を手に入れることができるようになった。骨董店で古い銀製食器を、家具と磁器を、そして見事なハイドンの肖像画などの絵も購入した。 ダーレムのフリッチャイの自宅には、フルトヴェングラー、エック、ケストナー、アイネム、ブラッヒャー、ブレッヒ、そしてティーチェンと多くの人々が訪れてきた。 「ろうそくの光のもと、サンドイッチとワインを手に、私たちは陽気で精神の豊かな語りで美しい夜を祝った。ウィルヘルム・フルトヴェングラー、彼は私のタイプではなかったが、彼は台所の腰かけに座って笑い話をした。老レオ・ブレッヒは、フェリがストックホルムからベルリンに招待したが、彼は、素敵でたくさんの機知にあふれた魅力を持っていた。私たちの家で一番関心を引いた人はハインツ・ティーチェンであった。彼は、か細く小さなベルリンの総支配人で、ここで1939年から32の劇場の支配人を務め、トスカニーニからバイロイト音楽祭の監督を引き受けた。ティーチェン夫妻は、後にエルマティンゲンに私たちを訪ねてきた。」 フリッチャイは、ベルリンで多くのオペラの新演出による上演を行ったが、シルヴィア夫人は、いずれのプレミエにも贈り物を制作した。例えば、日付と上演したオペラの名前を彫り込んだお盆とグラスというように。 しかし、1952年6月、市立オペラの音楽総監督を辞任し、ベルリンを離れることになる。(H17.7.3) |
| 第5話 旅の時代−1 |
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| フリッチャイがベルリンを去るにいたった理由として、猿田眞氏はフリッチャイの自己過信や東ベルリンのコミッシュオパーのフェルゼンシュタインとの親交に対する非難を挙げている。彼は、ティーチェンとの不和についても触れているが、これは大したことではないと述べている(レコード芸術1960年1月号) この辺のことについてシルヴィア夫人は次のように記している。「フェリは、極めて高い品質を求める厳しい仕事人であったが、オペラハウスの首脳陣と緊張状態になった。一人のマエストロの生涯の常として避けられない陰謀がやって来た。彼は1952年に契約破棄を上院に通知した。」彼女の捕らえ方は、「陰謀」である。ティーチェンとの不和については、後年、ティーチェン夫妻がエルマティンゲンを訪れていることからすると大したものではなかったのだろう。 市立オペラの音楽総監督を辞任し、フリーになったフリッチャイは、国際的に有名な指揮者として一流の契約を引き受けた。「彼はウィーン、ローマ、ベネチア、ナポリ、パリ、ロンドン、チューリヒ、アムステルダム、ニューヨーク、ヒューストン、テルアビブなどで指揮した。私はいつも傍らにいて、登場の前にきちんと衣類を配置したり、日常の物事を取り仕切った。フェリはお金の扱いに興味がなかった。」 しかし、この旅は、シルヴィア夫人に過酷なものだったようだ。「初めての場所、初めての人との出会いに対する緊張は、私にとって容易なことではなかった。私はベルリンで盲腸の手術を受けた後、肺炎にかかり病床に臥せった。私たちは、次の演奏旅行に向けてハンブルグで落ち合った。私はまったく衰弱して、52キロに痩せてしまった。フェリは私を見て泣いた。しかし、コンサートの後すぐ、私はトランクに詰め、引き続きヘルシンキとストックホルムに向かった。」(H17.10.23)(2023.2.20改訂) |
| 第6話 旅の時代−2 |
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| フリッチャイ夫妻は、1952年6月、ベルリン市立オペラの音楽総監督を辞任したこと機に、生活の、仕事の、そして休息の家となる住居を探し回った。それは、もっぱらシルヴィア夫人が行った。夫人は、チューリヒ放送局のチーフ、ロルフ・リーバーマンのアドバイスを受け、ボーデン湖のほとり、エルマティンゲンにたどり着いた。それは、ある日曜日の午後であった。夫人は、岸をあちこち行ったり来たりして、貸家の看板のついた大きな家を見つけ出した。 「その家は私にとって理想的に思えた。」シルヴィア夫人は、直ちに交渉をしようと、看板に書かれていた電話番号に電話をかけた。すると電話に出た相手は「いやいや、だめだ。今日が日曜日であるということをあんたは知らないのか?」と夫人をいさめた。ということで次の日の朝、再度、そこに行くことにしたのである。その家というのはドイツの偉大な工業家のヘッシュの所有であったもので、その当時はスイスの手形交換所の管理下にあった。邸宅は見事に家具が備えられていた。「私はヘッシェ夫人と電話で話した。彼女は私たちに借家することに同意し、私たちも月500フランで同意した。」 しかし、ことは簡単には済まなかった。スイスの滞在許可が出なかったのである。 「私たちはスイスの滞在許可を必要としていた。3週間が過ぎてもベルンのスイス連邦警察に出した私たちの申請に何の回答もなかった。時間がぎりぎりになってきた。まもなくコンサートのリハーサルは始まるし、子供たちも学校に行かなくてはならなない。私はベルンに電話をかけると許可は出せないと言われた。」 シルヴィア夫人は簡単には引き下がらなかった。 「私はフェリに言った。『あなたは、なにしろ有名な人だわ、私たちはそんなことは承知できないわ。』」と。 夫人はフリッチャイを伴って、一緒にベルンに行き、連邦議会の下の方にあるバラックにいた役人に姿を見せ驚かせた。役人は「アー、マエストロ・フリッチャイ、なんと名誉なことでしょう。しかし定住規則では認められないので残念です。」 連邦警察の役人は、「この指揮者は大金を稼げるだけ稼いで、アメリカに移住するつもりだ。」と聞いていると夫人に話した。 夫人は、これは嘘であるということ、そしてエルマティンゲンの家を賃借りする準備ができていたことを明らかにした。フェリはとてもがっかりし、承諾がいつ来るか望みを捨てた。夫人は「それでも、承諾は来るだろう。へこまないで。」と励ました。その二日後、滞在許可証を受け取ったのである。 そして、豪華な家具、絵、絨毯、さらに全ての家財道具を島国的なベルリンから運び出した。この引越しに当たっては、ベルリンのアメリカ占領地区のある若い軍司令大将の協力で無事、エルマティンゲンまで移動することができたようだ。 1年後には、その家を購入し、フリッチャイの邸宅となったのである。夫人は、ベルリンから持ってきた老練な家具、中にはシャルロッテンブルグ宮殿に由来しているものもあったが、それらを素晴らしく美しく備え付けた。また、ウィーンからマリア・テレジアのロココ調食器棚を備え付けた。 こうして、フリッチャイ一家は、生活の、仕事の、休息の、そしてフリッチャイをして「終の棲家」と言わしめた家を手に入れることができたのである。 「1956年まで私たちは演奏旅行で休むことはなかった。私たちは、クリスマスと復活祭だけはいつも家にいた。ボーデン湖畔のエルマティンゲンはより静かで穏やかな漁村で、牧歌的な村である。」(H18.3.26)(H18.6.11追加)(2023.2.20改訂) |
| 第7話 ミュンヘンに招かれて−1 |
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| 1956年、ようやく旅の時代は終りを告げた。ルドルフ・ハルトマンによってバイエルン国立歌劇場の音楽総監督に招聘されたのである。 「フェリは、ルドルフ・ハルトマンの演出のオテロのリハーサルに招かれたのだ。当時、見事なナショナル劇場は廃墟のままになっていたので、オペラは、いまだプリンツレゲンテン劇場で上演した。初日、ミュンヘン子は熱狂した。」 夫妻は、最初、グリュンバルトのある屋敷を借りた。最初の晩、その屋敷に行こうとしたが、見つけることはできなかったので、タクシーでヴァルト地区とパーク地区を何度も探し回り、ようやくたどりついたようである。 それから定住できる家を、長い間捜し回り、とうとう理想的な場所を見つけた。それはニンフェンブルク宮殿の近くにある瀟洒な館で、売りに出されていた。しかし、150万ドイツ・マルクだったので、とても手に届くものではなかった。そこで夫人は、友、エルンスト・フォン・シーメンスに以下のように助けを請うたのである。 「私はどうしてもそれを手に入れたいと思った。それが私の目標であり意志でもあった。だから私はエルンスト・フォン・シーメンスに電話をかけたのだ。すると彼は『山の私の狩猟小屋に来るように。』と言った。私はそこに行くと、作曲家のカール・オルフも来ていて、一緒に食事をとった。私は彼がベルリンからこちらにいることを知っていた。だから私は食後にシーメンスと二人で散歩に行くまで私の請願を話すのを待った。そして二人で散歩に出かけると、私はエルンスト・フォン・シーメンスに私の悲しみの種を物語り、彼にその館を彼の商社で取得してもらえないかと尋ねた。彼は再び味方してくれた。彼はこれだけ言って帰っていった。『私の総代理人ローゼ氏と連絡をとってみなさい。』明らかに彼は、その館を見てみたかったようだ。」 「そして私が彼の事務所に行った時、秘書が言った。『ローゼ氏はもう機中です。しかしこちらをご覧下さい。すでにすべて署名されています。』私は大喜びで、フェリも同じぐらい感激した。のちにシーメンスはこう言った。『あなた方がよければ、私は全てを用意しよう。しかし、何の心配にも及ばない。』」 邸宅は、シェーンブルン宮殿調の黄色の素敵な建物で、前に噴水池のある宮殿内の広場が位置し、後ろには庭園があった。 「オペラやレジデンツのヘルクレスザールかドイツ博物館でのコンサートの後の毎夜、いつものように旧知の、また新しい友がやってきた。フェリは上演の前は紅茶とトーストしか摂らない。私たちは5〜8人の客と一緒に家にやってくるが、私は信頼できるヘルタ・シュタインに知らせるだけでよかった。それがすでに夜中になっていても、全てが最上に準備されていた。」 ※エルンスト・フォン・シーメンス有名なドイツの電機メーカーのグループ会社のトップ?であり、彼の時代の1952年に半導体工場を設立し、ドイツ半導体の先駆けとなった。クラシック音楽への援助を積極的に行い、「エルンスト・フォン・シーメンス音楽賞」もある。ちなみに私の地元付近を走っていた上信電鉄の電気機関車デキは、シーメンス・シュッケルト社製である。後に合併し現在のシーメンス社となった。(H18.6.11)(2023.2.20改訂) |
| 第8話 ミュンヘンに招かれて−2 |
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| エルンスト・フォン・シーメンスとの知人関係は、シルヴィア夫人にとって心からの友人になった。彼女によれば「(シーメンスは)教養の高い素晴らしい人で、未婚であった。そして彼の活気ある妹、ウルズラ・グレフィン・フォン・ブリュヒャーと一緒に住んでいた。それに加えてこの大工業家は音楽も大いに好きで、フェリが指揮をしたほとんど全てのコンサートに訪れた。」シーメンスは何度もフリッチャイ夫妻のもとに留まり、それを隠していなかったので、フリッチャイの死の直後、マスメディアは「今、彼女は、シーメンス夫人になるだろう。」とまで報道されたようである。実際には、シルヴィア夫人は、1968年スイスの事業家ゲーナー氏と再々々婚した。 ミュンヘン時代の美しい思い出としてある晩のことを夫人は次のように記している。「家の奥の私たちの庭での晩を私は忘れない。 7月にとても素敵な晩があった。かすみがより輝いて植え込みや潅木に立ち込めていた。それはホタルが新婚旅行中のようだった。夏の夜のゆらゆらと愛らしい虫たちの優しい飛行はなんと不思議なことだろう。夜が明けるとオスは死んで大地に落ちる。そして人々は夜、そのはかない生涯について思いを馳せるのだった。」 1958年6月14日、フリッチャイはクヴィリエ劇場で「フィガロの結婚」を上演した。クヴィリエ劇場は、1753年、ベルギーの建築家フランソワ・クヴィリエによる賢覧豪華なロココ様式の宮廷劇場で、第二次世界大戦の際、戦災を免れるため外壁を除き全て解体され別の場所に避難させていた。ナショナル劇場とともに爆撃にあいがれきの山となったが、戦後、レジデンツに再建し避難してあった室那須装飾品などを取り付け、当時の優雅な劇場が蘇ったのである。その劇場再開での上演である。 「私のさじき席の客は、彼の著書のように愛らしくおもしろいエーリッヒ・ケストナーと、90才のいかした婦人、アネッテ・コルプであった。」 そして、アメリカからはブルノ・ワルターがやってきた。ホテルでの食事のとき、ワルターは「4年ぶりだ」と言いながら、夫人に有名な美しい言葉を話したのである。「私はあなたとあなたの夫におめでとうを言わなければならない。彼は素晴らしい指揮者だ。謙虚さを持っている。」 「フェリは、そのあとすぐにプリンツレゲンテン劇場で『ランメルモールのルチア』、『ホヴァンシチナ』とそれに続く多くのオペラを上演し、いつも大きな成果をもたらした。しかし、だんだん病気がはっきりわかってきた。彼は考えられない勇気で抵抗した。彼はミュンヘン時代の後3度手術し、その都度、私の夫は生命の奇跡によって帰ってきた。」 ※このときの「フィガロの結婚」はバイエルン放送局に録音が残されている。また、前日のリハーサルの様子も一部映像として残されており、その一部が「REMEMBERING FERENC FRICSAY」(フランスの映像会社 IDEALE AUDIENCE社作製)に収録されている。 ※クヴィリエ劇場の歴史は、平成14年に放送されたNHKの番組「四都物語ミュンヘン〜バイエルン王国の夢の都」を参照した。 (H18.11.11)(2023.2.20改訂) |
| 第9話 再びベルリンで |
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| 晩年のフリッチャイについて、シルヴィア夫人が記した部分は非常に少ない。 「フェリは、好んで演奏会を開いていたベルリンから再び招聘を受けた。そして1959年、彼は放送交響楽団との活動を再会した。 1961年、ベルリン・ドイツ・オペラのこけら落としでドン・ジョバンニを指揮したことを、彼はオペラ指揮者としての仕事の頂点と認めた。それは、舞台でのモーツァルト解釈として、彼の最後の偉大な成果であった。総監督のグスタフ・ゼルナーは、夫を新しい大劇場の主席指揮者として獲得しようとした。パウムガルトナーも、来る15年間、ザルツブルグ音楽祭でモーツァルトを指揮するよう彼に申し出た。それに加えて、ルツェルン国際音楽祭に行った。フリッチャイはそこで8年間指揮をしていた。」 1960年4月には、エルマティンゲンのフリッチャイ邸でゼルナー(ベルリン・ドイツ・オペラ総監督に就任)、ゼーフェルナー(フリッチャイが副監督に招聘)とフリッチャイの3人で会談を開き、フリッチャイは音楽総監督に就任することになったが、病気を理由に6月には就任を辞退した。1960年6月というとシュトゥットガルトでモルダウの映像収録をしたときであり、このときは最悪の体調で収録したことをアナウンサーが伝えていた。それゆえ、音楽総監督も辞任という気持ちになったのだろう。 ザルブルクでも1962年に「イドメネオ」の再演、1963年には「魔笛」の新演出上演というスケジュールを立てていたが、叶わぬ夢となった。 フリッチャイはシルヴィア夫人の50才の誕生日(1963年1月1日)を、エルマティンゲンで祝った。 「フェリはアローザの製菓業者が作った大きな誕生ケーキで私をびっくりさせた。その内部からは、ブリリアントダイヤで飾られた金色の夜会カバンが出てきた。」 時は流れ、2001年秋、ベルリン・ドイツ・オペラの音楽総監督のクリスチャン・ティーレマンは、没後40周年記念祭にシルヴィア夫人を招待した。 「私は、重い心で断らなければならなかった。フェリの胸像はそこのロビーに立っていて、かなりの年月の間、美しく展示されていた。ベルリンは、彼らのマエストロを忘れなかった。」 (H19.1.21)(2023.2.20改訂) |
| 第10話 笑い話 |
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| シルヴィア夫人は、フリッチャイとのエピソードの中で、いくつかの笑い話を記している。 1 キャビア事件 シルヴィア夫人は「あのときの笑い話も私はよく覚えている。」と書き出している。フリッチャイがマルグリット・ウェーバーと共演したときのこと。演奏会が終わり、彼女と彼女の夫、マリア・シュターダー、ドイツ・グラモフォンのディレクターのエルザ・シラーとケンピンスキーのグリルでテーブルを囲んでいた。マルグリット・ウェバーの夫はカール・ウェーバー、千万長者である。日本で言えば、億万長者ということだろう。 キャビアを注文したところ、ボーイ長はそれぞれの皿にほんの1cm程度を乗せて持ってきたのである。カールは呆れてもっと持ってくるようボーイ長に要求した。すぐにグリル席の責任者がやってきて、シルヴィア夫人の耳元に小声で『彼はその代金を支払うことができるのか?』と聞いて来たので、夫人は『払える。』と回答したのである。責任者は『あー、私はピアニストの夫だと思った。』と。それを聞いたみんなは大笑いしたということだ。責任者は、ピアニストの夫が億万長者とは知らなかったのである。 2 ぎっくり腰 コペンハーゲンのチボリ公園のコンサートホールで指揮したときのこと、この日は、デンマーク王と宮内官全員が出席していた。フリッチャイは突然の腰のひどい痛みを耐え忍んでいて、直立して進むことができず、それゆえ王と聴衆を待たせなければならなくなった。このとき、王は王にふさわしいふるまいをした。「王はフェリを彼のさじきに招待した。そこで私の夫は遅れたことをわびた。王は機嫌よく言った。『同士よ、余はこのコンサートをとても楽しみにしている。余も年に1回このオーケストラを指揮しているが、余も再三ぎっくり腰になる。』」 3 腹痛 ナポリのサンカルロ劇場でも定刻に始めることができなかった。このときはオーケストラのソロ吹奏者が姿を見せていなかった。幕が上がらず、徐々に殺気立ってきた。ある人が彼を家に呼びに行き、どうにかやってきた。「聴衆は怒り出し、ロイヤルボックスから市長が大声でオーケストラに向かってののしった。遅刻したソリストが立ち上がって答えた。『もし、あなたが私のようにひどい腹痛になったとすれば、あなたも吹き鳴らすことができなかったろう。』するとナポリなまりの大歓声が鳴り響いた。たいていの人は、笑いざわめき、陽気になった。」 4 コック これは笑い話と言えるのかどうかわかりません。それどこか後半は涙を誘う。ベニスで起こったこと。「私は、夫とホテル・ダニエリに滞在した。私たちは、ベニスに到着すると、急いでホテルに直行した。というのは、フェリはフェニス劇場でリハーサルを行わなければならなかったのだ。コンサートの前にシャワーを浴び、服を半分着て30分ベッドに横になること、そして、もう一度総譜に目を通すことがフェリの習慣だった。そうしているうちに、私もシャワーを浴び、服を着ることができた。ベニスではいつの晩もそのようにした。私はシャワーを浴び部屋に戻ると、私の愛する夫がいつものように彼の総譜の縁からのぞいて微笑んでいることに気づいた。どうしたのと聞いたらその答えはこうだった。『窓から見てごらん。』するとコックが向かいの家に立っていて、明らかに衣装をまとった私の登場を楽しんでいた。」 フリッチャイの死後、1963年10月にシルヴィア夫人は実の息子、クリチチャンとローマとベニスに自動車旅行に出かけた。長時間ドライブし、夕方に水の都に到着した。ベニスではホテルの部屋が空いていたのは、ホテル・ダニエリで一番高い部屋2部屋のみで、当時と同じ部屋であったのである。「フェリがまだ生きているようであった。そして私は窓のところに行った。そこには、また白い帽子を被ったコックがバルコニーに上に立っていて、こちらをじっと見ていた。私は涙を流さずにはいられなかった。それは、私の愛するフェリの説明できない奇跡の贈り物だった。」 (H19.9.24)(2023.2.20改訂) |
| まとめに代えて |
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| シルヴィア夫人の最後として、フリッチャイとの年月をまとめている文章を紹介しよう。 「1948年のクリスマスから始まったフェリとの年月は、私の生涯をたいへん富んだものにした。本当に深みのある生活が彼の死まで私たちを結び付けていた。私は世界中の町と多くの人々を見い出し、知り合いになり、私は幸福を手に入れ、おそらく偉大な作曲家が自分の作品を聴き、理解したのと同じくらい音楽を聴くことができた。 私は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーにとても感心した。私は、ティタニア・パラストで最初に彼の指揮を聞いた時のベルリン・フイルの響きが今でも耳に残っている。彼はベートーベンとブラームスを指揮した。私たちは、何度もマエストロのところに集まった。 新聞は、フリッチャイをイタリア人の情熱とドイツ人の厳しさのどちらも併せ持ち、フルトヴェングラーとトスカニーニの間に住み着いたと書いた。 フリッチャイが指揮棒をあげた時、私は、心から震え始めた。まがりなりにも私の音楽性は彼によって標準化され、いずれにせよ測り知れず使い慣らされた。彼の交響曲演奏において、歌い、ほほえみ、波立たせ、祈らざるを得ない。もし、ある指揮者が同時に偉大な芸術家であるとすると、総譜の知識とリハーサルの技術があるとしても、彼はきっと緻密な純真さと気楽さをも必要であろう。彼は世間の無用を投げ落とさなければならない。そしてその時の世界にあって作曲家の身になって考えることができるようにならなければならない。当時、多くの人が自問した。人々は、なぜ、フルトヴェングラーの死のあと、フリッチャイでなくチェリビタッケをフィルハーモニーのシェフに選んだのだろうと。」 (H19.9.24)(2023.2.20改訂) |