フリッチャイの経歴
フェレンツ・フリッチャイは、1914年8月9日、ハンガリーの首都ブタペストに生まれた。
父は軍楽隊の指揮者、祖父はテノール歌手という恵まれた音楽環境で、フリッチャイは幼少の頃からあらゆる楽器の手ほどきを 受けた。
1928年、14才でブタペストの高等音楽院に入学、バルトーク、コダーイに師事した。
1933年、同音楽院を卒業と同時にハンガリー第二の都市、セゲドの軍楽隊の指揮者に就任、のちにセゲドの市立フィルハーモニー、 オペラの指揮者も兼務し実力を蓄える。
1945年ブタペスト国立オペラの指揮者、1946年にはウィーンに招かれて《カルメン》を指揮するなど次第にハンガリー国外でも 実力が認められたフリッチャイは、1947年のザルツブルク音楽祭においてオットー・クレンペラーの代役でアイネムのオペラ 《ダントンの死》を初演して大成功をおさめ一躍世界の桧舞台に踊り出た。
この成功でザルツブルク音楽祭では、1948年にマルタンのオペラ《魔法の酒》の舞台版初演、1949年にはオルフのオペラ 《アンティーゴネ》の初演を指揮した。
1948年11月、フリッチャイはベルリンに招かれ、放送局のオーケストラでのコンサートに続き、市立オペラでヴェルディの 《ドン・カルロ》を指揮した。12月にRIAS交響楽団、ベルリン・フィルハーモニーを指揮し、1949年からRIAS交響楽団の 初代首席指揮者、ベルリン市立オペラの音楽総監督に就任した。
1952年、ベルリン市立オペラとの音楽総監督の契約終了後、フリッチャイは、スイスのボーデン湖畔のエルマティンゲンに居を構え、 RIAS交響楽団と、また単独でヨーロッパの数々の都市、また南米に演奏旅行を行った。
1953年、ボストン交響楽団を指揮してアメリカにデビューしたフリッチャイは、1954年10月、RIAS交響楽団の首席指揮者を 辞任してヒューストン交響楽団の常任指揮者に就任したが、楽団の向上について楽団理事会と対立し、定期演奏会を8回指揮したのみで、 早くも1955年1月には辞任、ヨーロッパに活躍の場を戻した。
1956年、フリッチャイはバイエルン州立オペラの音楽総監督に就任、ヴェルディを始めとするイタリア・オペラの数々のミュンヘンの 地での初演を行った。しかし、ヒンデミットの《世界の調和》の初演をめぐって楽団側と対立したのを始め、楽団の管理やレパートリーの 問題などから、1958年11月、残り2シーズンの契約期間を残してバイエルン国立オペラの音楽総監督を辞任した。
バイエルン国立オペラの音楽総監督を辞任後、病を得て生死をさまようこともあったが、奇跡的に回復し、1959年9月ベルリン放送 交響楽団(1956年RIAS交響楽団から改名)の首席指揮者に再度就任、再び指揮台に復帰した。
復帰後のフリッチャイはこれまでのトスカニーニ的な作品へのアプローチから、芸風、風貌ともフルトヴェングラーを彷彿させるように なり、よりスケールの大きい陰影の濃い演奏になっていった。
1961年夏には、再びザルツブルク音楽祭に招かれ、モーツァルトの《イドメネオ》を指揮し、好評によりウィーン・フィルと追加 コンサートを行った。秋には、ベルリン市立オペラから新たに再建されたベルリン・ドイツ・オペラの新オペラハウスのこけら落としを モーツァルトの《ドン・ジョバンニ》で飾り、また、ウィーン・フィルの新シーズン最初の定期演奏会を指揮するなどドイツ・オーストリア の指揮界を担う重鎮として期待されたが、1961年12月、再び病気が再発、再起することなく1963年2月20日早朝、静養先 スイスのバーゼルで48歳で亡くなった。

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